ロレックスがこれまでに生み出したストーンダイヤルの中で、“Obsidian”ほどコレクターの想像力を掻き立てたものはありません。近年のドレスウォッチの復権の中で、デイトナにおけるPaul Newmanや、サブマリーナーにおけるMilSubと同様に、この文字盤は聖杯と呼ばれる領域へと静かに上りつめました。
表舞台に姿を現すことはほとんどなく、取引のほぼすべては人目に触れずに行われ、現存数はあまりに少なく、大半のコレクターは実物を目にする機会すらないでしょう。それでいて、その魅力とは裏腹に、この文字盤をめぐってはいまだ判然としないことも少なくありません。石の正体は何なのか、なぜあの模様が生まれるのか、そもそもその名前は正しいのか。いずれもはっきりとした答えは出ていない一方で、かなり踏み込んで言及できることが存在するものまた事実です。

なによりも注目してもらいたいのは文字盤そのものの魅力です。黒と褐色が互いに溶け合うように流れることで生まれるのは、ダイナミックで幻想的とも言える表情です。これらは完全にユニークで、同じものはふたつと存在しません。さらに少し離れて眺めると、その形は暗い海を漂う大陸のようにも見えてきます。ワールドタイムの時計の文字盤に描かれた世界地図を思わせると言っても大袈裟ではないでしょう。
この独特の表情が生まれる背景には、ロレックスのストーンダイヤルの製作工程が存在します。ロレックスのすべてのストーンダイヤルは、薄くスライスした石を真鍮のベースに接着されています。黒色でガラス質の火山岩であるobsidian(黒曜石)の場合、半透明の石を透けて見える下地の真鍮があの模様を生んでいる――これがObsidian Dialについて広く受け入れられてきた通説です。
これは一見すると筋の通った話ではありますが、細部に目を向けるとそれだけでは説明できないことも見えてきます。


そもそもobsidianという呼び方は、ここ数年でコレクターの間に広まっただけにすぎず、当時のラインナップにobsidianの文字盤が存在したという根拠も存在しません。
また模様そのものにも疑問は多く、もし単に真鍮が透けて見えているだけだとすると、模様は完全にランダムに散らばっているはずでしょう。ところがほぼすべてのObsidian Dialで、模様は針の周り、外周、日付枠、つまりダイヤルの断面に集中的に見られます。文字盤自体のテクスチャもまた、天然のobsidianではありえないほど滑らかで、全体の雰囲気も後年の5桁リファレンスに見られるobsidianダイヤルとは全くの別物です。
これらの事実を重ね合わせて見えてくる仮説は、Obsidian Dialは実際にはオニキス文字盤であり、その模様は石本来のものではなく、石と真鍮のベースとの間で数十年をかけてゆっくりと進んだ化学的な反応によるものではないか、というものです。
この仮説にはロレックス以外の時計にも裏付けが存在します。ほとんど知られていないことですが、ロレックスのObsidian Dialまったく同じ見た目を持つパテック フィリップの文字盤が存在し、そのエクストラクトには素材がオニキスであると明記されているのです。

文字盤の正体がなんであれ変わらないのは、これがロレックスのストーンダイヤルの中でも最も珍しい仕様のひとつだということ、そして誰しもの目を引くその存在感です。もし上記の仮説が正しいとすると、時の洗礼を経て選ばれた個体のみに現れるトロピカルダイヤルと同様の“トロピカル・オニキス”こそがより正確な呼び名なのかもしれません。
近年になってようやく見出されるようになったこともあり、現存数について正確な数字は知られていません。事実として言えるのは、ここ数年で公に確認できる売買履歴が世界で十数本にすぎないということだけです。
この文字盤は何十年ものあいだ誰の目にも留まらず、近年のドレスウォッチの復権によってようやく日の目を見ることになりました。常にそこにありながら見出されるのを待っていた、新しい時代の聖杯です。
この個体もまた、これまでの他の個体と同じように、市場に姿を現すことはありませんでした。衆目にさらされることなく取引を終え、いまは次の持ち主のコレクションに静かに収まっています。